人とふれあい
共に学び
共に育つ子の育成
牧田小学校は、鈴鹿市の中央部にあり、平田町・岡田町・弓削町・甲斐町を校区としています。学校の北は広い田園地帯が広がり、その向こうには鈴鹿川が流れています。南には、住宅地と商業地が広がっています。
昔は広い田園地帯の広がる農業を主とする地域でしたが、戦争中に大規模な兵器工場がつくられ、戦後はその跡地に大工場が誘致され、校区周辺の様相は著しく変化しました。その後、大規模店舗が進出して商業地域としても発展をし、またその周りの場所にも様々な商業施設ができてきています。そして、新しい住宅地も広がって市街化も進んできました。
学校から車で約10分南に行くと、F1などモータースポーツ、遊園地で有名な鈴鹿サーキットがあります。
1980年頃には、児童数約1200名の大規模校でしたが、2つの新設校(明生小学校、清和小学校)が付近に作られ、現在は児童数約400名の学校になっています。
本校には外国につながりのある子どもたちも多く在籍しており、1993年に日本語指導教室「 いきいき教室 」を設けて、日本語習得の状況に応じて、支援にあたっています。
校舎は廊下の長さが約130mもある東西に長い3階1棟です。校舎1階には鈴鹿市によって設置された「 前川定五郎資料室 」があり、住民のため、鈴鹿川の架橋に力を注いだ郷土の偉人、前川定五郎について学ぶことができます。
明治 8年(1875)8月12日、鈴鹿郡弓削岡田村・算所村・平田村の3村に初めて学校ができた。第二大学区第35 番中学区第141番小学区岡田学校といって、来迎寺の本堂を仮の校舎にした。また、甲斐村には、37番小学区甲斐学校ができた。下等科と上等科があり、下等科は6才~9才、上等科は10才~13才までだった。入学するには、「入学願」がいるが、退学は自由だった。また、試験の成績が悪いと落第があった。
初めて学校に入ると8級で、試験に合格すると半年で7級になれた。作文・読み方・習字・算術を教えていた。
明治20年(1887)小学校簡易科授業所と名前が改められた。当時は学校は8年間だったが、なかなか学校へ行けない子どもが多かったので、3年間だけ通う学校をつくってもよいことになったからである。読書・作文・習字・算術を教えた。
明治24年(1891)には牧田尋常小学校と名前を改めた。明治28年(1895)には、補修科ができた。補修科は、学校の科目が、修身・読書・作文・習字・算術・体操だったので、その他に地歴・理科を学習するためにできた。図画・手芸・さいほうを加えてもよかった。明治30年(1897)の児童数は129人で先生5人だった。
明治34年(1901)高等科2年をつくり、牧田尋常高等小学校と名前を改めた。尋常科は4年で授業料はいらなくなった。試験による進級もなくなった。読書と作文をあわせて、国語とした。尋常科2学級・高等科1学級ができた。
明治41年(1908)学校は6年間となり、牧田尋常小学校と名前を改めた。このころの児童数は191人。学級数も6学級になった。
大正9年(1920)10月25日校舎が建てかえられ、くすのきが記念に植えられた。今の創立記念日は、この日となっている。このころの児童数は138名・先生8人だった。
昭和になって、戦争が始まると、平田町に鈴鹿海軍こうしょうができた。これによって、地区の様子は大きく変わることとなった。戦争が終わった昭和20年(1945)の児童数は392人・先生12人であった。
昭和57年には児童数1,220人となり、昭和59年には明生小学校、昭和60年には清和小学校が新設された。その後、昭和62年、平成4年に校舎内の改修、平成15年には耐震補強および大規模改修工事を行った。
平成20年には、登下校の児童を見守る「にこにこ牧田っ子見守り隊」が結成され、現在も児童の安全・安心に係る活動を行っている。
平成29年には普通教室、特別教室にエアコンが設置され、令和3年には児童への一人1台学習用端末の貸与が始まった。
令和5年からは2年間、鈴鹿市教育研究会委託校として、算数を中心とした研究を進め、令和6年10月に研究委託発表を行った。
令和7年からは国語を中心とした研究を進めている。
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