開国曙光の碑

大正7年に建設された光太夫の顕彰碑。

 この碑は大黒屋光太夫を顕彰する碑です。碑の正面には大きく「開国曙光」という字が刻まれています。開国曙光というのは開国という夜明けの光、つまり大黒屋光太夫のことを例えています。
 「開国曙光」という
題字は徳川家達(15代徳川慶喜引退の後、徳川宗家を相続・公爵)。撰文は、近代の大黒屋光太夫研究の先駆けとなった新村出(文学博士・「広辞苑」の編者)です。
 この顕彰碑は、当時の若松尋常小学校長・伊藤六三郎や若松村長・内山治右衛門、三重県会副議長・伊坂秀五郎など地元の有力者が発起人となって建設されました。彼らが寄附を募って建設費を賄ったことが石碑の裏に刻まれた文言からわかります。



 
 しかし、この開国曙光の碑は、現在3基あり、一体なぜ3基もあるのか?どれが一番古いのか?そんな歴史的な経緯が曖昧でした。地元での光太夫顕彰活動が早くから盛んだったことを示す貴重な資料なのにそれは残念・・・。というわけで、調査した結果わかったのが以下の変遷の経緯です。

この調査は、大黒屋光太夫史料研究会が関係者の子孫や地元の古老にお話を伺ったり、古い新聞記事を探したり、古写真を見比べて比較したりしました。

****************************

「開国曙光」の碑は、大正7年に若松小学校校門前の空き地に建設されました。伊勢新聞でも報道され、盛大な落成式も行われたようです。しかし、大正10年の台風により倒れて破損してしまい、さらに昭和9年には室戸台風により倒壊して二つに折れてしまいました。そのため若松小学校門前から碑は撤去され、若松村長の内山家の庭に運ばれたそうです。

しかし、地元のシンボルである開国曙光の碑が室戸台風により失われたことを残念に思った伊藤六三郎が中心となって、千代崎海岸に碑を再建しました。ところが、昭和34年の伊勢湾台風で被害に遭い、石碑の一番上の部分が少しが欠けてしまったそうです。

そして昭和51年、その開国曙光碑を千代崎海岸から若松小学校前に戻そうという声が地元から上がり、移動を試みました。しかし、石碑の老朽化が激しく、クレーンで持ち上げる際に破損してしまいました。そのため、破損した碑はそのまま千代崎海岸に残し、若松出張所前に新しく開国曙光の碑を再建したのです。それが現在若松市民センターの敷地内に立っています。

また、2つに折れてしまった初代の碑の
上部は、10年程前内山家から移されて、現在は若松公民館前に安置されています。






テキスト ボックス:
テキスト ボックス:

千代崎海岸の開国曙光碑

若松公民館の開国曙光碑

若松地区市民センターの開国曙光碑