|
大黒屋光太夫は、宝暦元(1751)年 伊勢国南若松村(現三重県鈴鹿市)に生まれました。南若松村のすぐ近くには、江戸への廻船の拠点として賑わう白子という港がありました。光太夫は、その白子港の廻船問屋に雇われて、江戸と伊勢を往復する船頭でした。
天明2(1782)年12月、光太夫は江戸へ向けて白子を出航しました。しかし、その途中、暴風雨に遭い、梶を折られたばかりか、帆柱を切り落とす決断も余儀なくされます。梶も帆柱も失った船は、太平洋を北に向かって流され漂い、7ヵ月後、ロシアとアラスカの間に位置するアリューシャン列島の孤島・アムチトカ島に漂着しました。
光太夫たちは、その極寒の孤島で4年間も耐え、木材を拾い集めて船を作り、カムチャッカ半島へ渡りました。その翌年には、シベリアのイルクーツクへと移動し、さらに、女帝の住むロシアの首都ペテルブルグへと大陸を横断したのです。帰国の許可を得るための過酷な大旅行でした。その長い旅の間、光太夫は、たくさんのロシア人の協力を受け、様々な民族と接し、日本と異なる文化をその目に焼き付けました。
ペテルブルグに着いた光太夫は、エカテリーナ2世に謁見を許され、帰国を訴えました。
そのころの光太夫の手紙が、今もドイツのゲッチンゲン大学に残っています。
また日本へ帰り候事は、うどんげの花に御座候。八九年の心痛めにて、命の程ははかりがたく候。(帰国することは優曇華の花を見ることと同じように叶わないことで、この8,9年の心の痛みを思うと、この先の命もわからない…。)
「うどんげ」とは優曇華、三千年に一度咲くといわれる伝説の花のことである。光太夫の焦がれるような帰国の思いと絶望が伝わってくる一文だ。手紙は次のように続きます。
今一度日本へ帰り、この国の話つかまつり候。書きて差し遣わしたく候事は、紙何千枚にも尽くし申さず候。(もう一度日本に帰り、この国の話をしたい。書いて送りたいことは紙を何千枚使っても尽きることはない…。)
光太夫は、帰国の許可を待つ間、ロシアの貴族たちから国賓のような待遇を受け、様々な場所に出入りして見聞を深め、ロシアについての知識を蓄積していました。その経験は、ロシアで見聞きした知識を日本に持ち帰りたいという衝動になり、望郷の念とともに帰国の思いを募らせ、このような手紙を書かせたのでしょう。
光太夫がラクスマンに伴われて帰国したのは、漂流から10年後、寛政4(1792)年9月5日のことでした。帰国した光太夫を待っていたのは、幕府の役人や蘭学者たちの取調べでした。当時、日本に入る海外情報は、長崎などから入ってくる間接的な情報が殆どで、光太夫のような漂流民の直接的な海外体験は、非常に貴重な情報源だったのです。
その中でも、幕府の奥医師・桂川甫周という人物は、光太夫からロシアの情報を聴取し、その内容を『ゼヲガラヒ』というオランダの地理学書と照合して『北槎聞略』という本に集大成しました。『北槎聞略』はロシアの地理・歴史・習俗・言語などを網羅する当時の一大ロシア研究書です。(現在、国立公文書館所蔵・国指定重要文化財)また、甫周は、光太夫が将軍の上覧を受けた時にも同席し、その記録を『漂民御覧之記』という本に著しました。この本は次々と写本されて人々の手に渡り、非常に多くの人たちの関心を集めることになりました。
光太夫は、その後の人生を江戸で過ごしました。『軟禁』という言葉を使って表現されてきた光太夫の帰国後の生活ですが、大槻玄沢・鷹見泉石など多くの蘭学者と行き来し、比較的自由な生活だったようです。光太夫の持ち帰ったロシア語をはじめとする情報は蘭学者に受け入れられ、光太夫は蘭学の発展に大きく寄与することとなりました。
*この文章は,『船員ほけん』2005年2月号の
「海の民俗と歴史 120」に原稿提供した記事を
加筆訂正して掲載しました。
|